よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのをぶねの つなでかなしも
鎌倉右大臣 (かまくら‐うだいじん) [通釈]あこの世の中は永久不変であってほしいものだなぁ。この渚を漕いでゆく漁夫の小舟の、引き綱を引いてゆく光景は、なんとまぁ、感深いことであることよ。(新勅撰集) *********************************** 他の方のHPには、↓このようにあった。 世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)漕ぐ 海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも 世の中の様子が、こんな風にいつまでも変わらずあってほしい ものだ。波打ち際を漕いでゆく漁師の小舟が、舳先(へさき)に くくった綱で陸から引かれている、ごく普通の情景が切なくいと しい。 ************************* 『鎌倉右大臣』で調べたら、源実朝(みなもと‐の‐さねとも)とでました。 以下抜粋: 小倉百人一首93 [1192~1219]鎌倉幕府第3代将軍。頼朝の次男。母は北条政子。幼名、千幡。頼家のあとを継いで将軍となったが、実権は北条氏が握った。のち右大臣となり、鶴岡八幡宮で頼家の子公暁(くぎょう)に殺された。藤原定家に師事、万葉調の歌をよくし、家集「金槐和歌集」がある。 ****************** ちなみに…↓ 建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲った。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に仲章を切り殺したが、これは太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された[4]。 予見が有ったのか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べたが、仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪を行う者に記念と称して髪を一本与えている。庭の梅を見て詠んだ辞世となる和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」で、禁忌の歌と評された。落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わるが、これは後世の創作と考えられ、信憑性に乏しい。『承久記』によると、一の太刀は笏に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。 28日、妻は落餝し御家人百余名[5]が出家する。亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺した。この時、渡宋を命じられていた葛山景倫は訃報を聞いて、高野山に菩提を弔う為に上がり、その忠心を政子に認められ、和歌山の由良に西方寺(後の興国寺。尺八伝来の地)を与えられた。実朝には子が無かったため、彼の死によって源氏将軍および河内源氏棟梁の血筋は断絶した。 PR |
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