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百人一首
あまのはら ふりさけみれば かすがなる
 みかさのやまに いでしつきかも

安倍仲麿 (あべのなかまろ)
(古今集)

[通釈]大空をはるかに見渡すと月が出ている。あの月は昔、故郷の三笠の山に出た月と同じものか、ああ、恋しいことだなぁ
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『安倍仲麿』で調べたら、阿倍 仲麻呂ででた。
以下抜粋:
(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年)1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。中務大輔・阿倍船守の子。弟に阿倍帯麻呂がいる。
唐で科挙に合格し唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせなかった。中国名は仲満のち晁衡(ちょうこう、または朝衡)。

文武天皇2年(698年)、阿倍船守の長男として大和国に生まれ若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)、多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行し唐の都・長安に留学。同期の留学生には吉備真備や玄昉がいた。
唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕える。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官位を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。

天平5年(733年)多治比広成(県守の弟)が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破。この時帰国した真備と玄昉は第1船に乗っており助かった。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で日本に帰国することができた。天平5年(734年)には儀王友に昇進した。
天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進する。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。
しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。実際には仲麻呂は死んでおらず船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めなかった。

仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられた。最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じた。
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留学先で試験に受かってしまい、日本に戻れなかった人なんだね。
そっかそういえば、習いましたワ(^_^;)

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【2012/11/18 04:13 】 | 百人一首のお勉強 | 有り難いご意見(0)
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