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百人一首 11
わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと
 ひとにはつげよ あまのつりぶね

參議 篁 (さんぎ たかむら)
(古今集)

[通釈]大海原を多くの島々へ心を寄せて漕ぎ出して
行ったと、都に居る懐かしい人に告げておくれ、漁夫の釣舟よ


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參議 篁で調べたら、小野 篁でHIT。以下抜粋。
小野 篁(おの の たかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は、平安時代前期の官人、学者、歌人。参議小野岑守の子。官位は従三位・参議。異名は「野相公」「野宰相」、その反骨精神から「野狂」とも。
経歴

小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。
孫に三蹟の一人小野道風がいる。

若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し学業に励んだとされる。弘仁13年(822年)文章生に補せられ、大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下に叙せられた。翌天長10年に仁明天皇が即位し、淳和上皇の皇子恒貞親王が皇太子になると、東宮学士に任ぜられた。

承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使藤原常嗣の専断に憤慨しいさかいを起こし、病気と称して乗船を拒否(遣唐使は篁を残して同年6月渡海)する。さらに、「西道謡」という朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪の上隠岐への配流に処された。のち承和7年(840年)2月許されて帰京・本位に復す。

その後も蔵人頭・左中弁と要職を歴任。承和14年(847年)には参議として公卿に列した。仁寿2年12月(853年1月)従三位に叙せられるがまもなく薨じた。

流されたけど、頑張って返り咲いた人なんだね。

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【2012/06/14 00:32 】 | 百人一首のお勉強 | 有り難いご意見(0)
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