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仔犬の冬休みの宿題の一つ‘うらしまたろう’
今日もなかなか宿題進展せず。
一昨日、冬休みの課題の本を‘ももたろう’‘きんたろう’‘うらしまたろう’に
絞った仔犬は、とりあえず‘うらしまたろう’を読んで、玉手箱で歳を取ってしまった太郎に同情し、なんでこうなるのかと憤ってました。
そして感想文記入後、これ何時代の話なの?、と聞かれました。
…な、何時代とな?!
縄文ではなく弥生でもなく、でも時代背景はこんな児童書には載っていなくて、まずは、Wikipediaで確認。以下凄い内容を抜粋です。

1.『日本書紀』による話
浦島子が現存文献に登場する事例『日本書紀』「雄略二十二年条」は最古である。蓬莱山へ行ったという発端部分だけの記載がある。

2.『丹後国風土記』にある話
『丹後国風土記』(現在は逸文のみが残存)にある「筒川嶼子 水江浦嶼子」[1]が原型とされる。ほぼ同時代に書かれた『日本書紀』『万葉集』にも記述が見られるが、『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しい。

3.万葉集巻九による話

『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われている。

読み下し:春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江の 浦島の子が 鰹釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海境を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり ふたり入り居て 老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 我れは来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年の間に 垣もなく 家失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ

大意訳:水の江の浦島の子が7日ほど鯛や鰹を釣り帰って来ると、海と陸の境で海神(わたつみ)の娘(亀姫)と出会った。二人は語らいて結婚し、常世にある海神の宮で暮らすこととなった。3年ほど暮らし、父母にこの事を知らせたいと、海神の娘に言ったところ「これを開くな」と篋(くしげ・玉手箱のこと。もともとは化粧道具を入れるためのもの)を渡され、水江に帰ってきた。海神の宮で過ごした3年の間に家や里は無くなり、見る影もなくなっていた。箱を開ければ元の家などが戻ると思い開けたところ常世との間に白い雲がわき起こり、浦島の子は白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。[3]

「浦島太郎」という名前は中世から登場し、それ以前は水江浦嶼子を略して「浦島子」と呼ばれている。
(雄略天皇)廿二年(中略)秋七月。丹波國餘社郡管川人水江浦嶋子乘舟而釣。遂得大龜。便化爲女。於是浦嶋子感以爲婦。相逐入海。到蓬莱山歴覩仙衆。語在別卷。

4.『御伽草子』

「浦島太郎」として現在伝わる話の型が定まったのは、室町時代に成立した短編物語『御伽草子』による。その後は良く知られた昔話として様々な媒体で流通することになる。亀の恩返し(報恩)と言うモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のことで、乙姫、竜宮城、玉手箱が登場するのも中世であり、『御伽草子』の出現は浦島物語にとって大きな変換点であった。

丹後の国に浦島という者がおり、その息子で、浦島太郎という、年の頃24、5の男がいた。太郎は漁師をして両親を養っていたが、ある日、釣りに出かけたところ、亀がかかったが、「亀は万年と言うのにここで殺してしまうのはかわいそうだ。恩を忘れるなよ」と逃がしてやった。数日後、一人の女人が舟で浜に漕ぎ寄せて自分はやんごとなき方の使いとして太郎を迎えに来た。姫が亀を逃がしてくれた礼をしたい旨を伝え、太郎はその女人と舟に乗り大きな宮殿に迎えられる。ここで姫と3年暮らし、太郎は残してきた両親が心配になり帰りたいと申し出た。姫は自分は実は太郎に助けられた亀であったことを明かし、玉手箱を手渡した。太郎は元住んでいた浜にたどり着くが、村は消え果ていた。ある一軒家で浦島何某の事を尋ねると、近くにあった古い塚がその太郎と両親の墓だと教えられる。絶望した太郎は玉手箱を開け、三筋の煙が立ち昇り太郎は鶴になり飛び去った。

『御伽草子』では竜宮城は海中ではなく、島か大陸にあるように書かれている。春の庭、夏の庭、秋の庭、冬の庭の話はメインストーリーの付け足し程度に書かれている。

5.「鶴亀」バージョン

室町以降の『御伽草子』系の一部に浦島説話の変形版があり、以下のように結末を結ぶ。
浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。亀は甲に三せきのいわゐ(苔)をそなへ、万代を経しと也。(中略、両者は)夫婦の明神になり給ふ
一説に、ここから「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と謡う能楽の「鶴亀」などに受け継がれ、さらに、鶴亀を縁起物とする習俗がひろがったとする。

6.横浜市神奈川区に伝わる話

慶運寺にある石碑
昔、相模国三浦に浦島太夫とよばれる人がおり、彼は仕事のため丹後国に赴任していた。その息子である太郎は、亀が浜辺で子供達にいじめられているところに出会う。(全国版と同じなので中略)老人になった太郎はある漁師から両親の墓が武蔵国白幡にあると聞いた。

この情報を聞いた太郎は急いで子安の浜に行き、両親の墓を探したが、なかなか見つけられない。それを見かねた乙姫は、松枝に明かりを照らして場所を示した。やっとのことで墓を見つけた太郎はその地に庵をつくり、太郎はそこに住んだ。この庵は後に観福寿寺となるが、明治5年に廃寺になってしまう。しかし、聖観世音菩薩像が残り、神奈川区の慶運寺に安置されている。

神奈川区は、浦島町・浦島丘・亀住町など浦島太郎にちなんだ名称があり、伝説の亀をマスコットとしている。

7.沖縄に伝わる話

本土のものと若干道具立てが異なる。

昔、南風原間切与那覇村に正直者の漁師が居て、ある日与那原の浜で髢(かもじ。髪の毛)を拾った。探している娘を見つけて渡すと感謝され、竜宮に招待したいと言う。漁師が娘と一緒に歩くと海が二つに割れて道が開け、竜宮に通じていた。娘は乙姫と素性を明かし、漁師は竜宮で歓待の日々を過ごすこととなる。三ヵ月ほど経つと漁師は故郷が恋しくなり、娘から紙包みを渡されるが「開けないように」と念を押される。やがて漁師が郷里に帰り着くと辺りは変わり果て、人間でおよそ三十三代かかるほどの年月が経っていた。漁師は開けるなと言われた紙包みを開いたが、中には髢が一束入っているのみで煙が沸き立ち、彼は白髪の老爺と化して倒れ死んだ。地元の者が老爺に敬意を払い墓を建て祀ったのが、穏作根嶽(うさんにだき)であるという。
*************************
なんだか知れば知るほど面白いかも。

そして時代については、旦那犬は室町じゃない?、とか言っていたけど、
もともとあった伝承を採集しそれを編集、脚色したと思われるものが平安時代辺りに出てきたとされている、実に興味深い。ここまで来ると子供の宿題の範疇じゃない気がするけど。(^_^;)


これはファイル整理してたら出てきました。↓
今更ですが、これは某デパートに寄ったら展示してあったシンデレラの馬車みたいです。

素敵です。これ撮ったのはクリスマス前でした。

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【2012/01/06 02:17 】 | 暴れ仔犬について | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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