輪るピングドラム、遅れてきた考察輪るピングドラム全24話が完了。 様々な符号、暗喩、寓話的表現。様々な伏線、謎、フェイク、あるいはこちらの思い込みなだけで伏線でも謎でもなかったもの。何がどのように回収され、解決され、結局どういうストーリーだったのか。。 最後ペンギンは、4匹揃って二人の少年の後ろをひょこひょこ歩いてついて行った。 なぜ? 輪るピングドラムは宮沢賢治の銀河鉄道の夜がモチーフだと言う。 実際、再三登場した地下鉄社内が突然暗転し不思議な光で満たされるのは、銀河鉄道の夜に出てくる描写を形にしたかのようだ。 第一話そして最終話で登場する二人の少年は、銀河鉄道の夜におけるりんごの役割を語りながら通り過ぎる。最終話では「蠍の炎」という言葉も、そして実際自分の身を代償にして焼かれてしまうシーンも現れる。冠葉と晶馬はカムパネルラとジョバンニをもじっているのだろうし、真悧はザネリだろう。 銀河鉄道の夜では現世と異世界を結ぶ出入り口として「石炭袋」という言葉が出てくるが、これは今で言う暗黒星雲のことで「空の穴」という呼び名もある。大量の図書が並び、正に現世と異世界の中間のように登場する「空の孔分室」もここから来ていると思って間違いない。透明な存在の象徴としてあふれるガラスの破片は、銀河鉄道の夜、あるいは他の宮沢賢治作品に出てくる水晶の欠片をひどく思い出させる。 考えても考えても銀河鉄道の夜と4匹の関係性は見いだせない。 だがふと突然思い出した話、ギリシャ神話のふたご座。 ふたご座の神話はカストル(兄)とポルックス(弟)が主人公だ。 スパルタの王妃レダが、白鳥の姿をした大神ゼウスと交わって2つの卵を生み落とす。1つの卵からは兄カストルと姉クリュタイムネストラ、もう1つの卵からは弟ポルックスと、妹ヘレネの4人の子供が誕生する。このうちカストルとクリュタイムネストラは普通の人間なのだが、ポルックスとヘレネはゼウスの血を引く不死の身体なのだ。 カストルとポルックスの兄弟がとても仲良く育つ中、ある日戦いで兄カストルが死んでしまう。弟ポルックスも負傷するが、不死の体なので死ぬことはなく、ただただポルックスは兄の死を激しく嘆き悲しむこととなる。父ゼウスが哀れに思い、ポルックスを天上に連れて行って神の一員にしようとするのだが「兄と一緒でなくては嫌だ」と応じない為、仕方なくゼウスはカストルにポルックスの不死性を半分分け与え、1日おきに天上界と人間界で暮らすことにするのだ(最終的にはやがて二人は星になる)。 酷く似ている。 冠葉と真砂子、晶馬と陽毬と男女がペアになっているあたり。しかも兄(冠葉)ペアの方は普通の人間であることに対し、弟ペアの方は神の子(教祖の子、扱い)であるあたり。先に死ぬのは兄、命を分け合うのは弟のあたり。双子が最後半分(神話では日替わりの存在、輪るピングドラムではさらに子供化=年齢が半分?)になるあたり。 「銀河鉄道の夜がモチーフ」に引っ張られすぎていたけれど、実はストーリーの根底にあったのはふたご座の神話の方だったんじゃないだろうか? 宮沢賢治は、銀河鉄道の夜に関しては全部で4つの原稿を残している。1980年代に研究者たちによって最後の第四稿を中心に編纂が行われ、それが現在出回っている銀河鉄道の夜という作品だ。しかしそれより前は、第一稿〜第三稿も含めて混濁した、かなり適当な編纂のものが出回っていたそうだ。1976年に生まれ、小学校低学年の頃に図書館で銀河鉄道の夜を借りた私は、おそらくその混ざり合って適当な旧バージョンを読んでいるのである。 しかし新バージョンでは、カムパネルラのお父さんは明確に息子の生存の諦念を口にする。「もう駄目だめです。落ちてから四十五分たちましたから。」この上ない衝撃である。そもそもこのお父さんの冷静過ぎる態度に驚愕することはさておき、このセリフによって、銀河鉄道で消えた人たちはすべて死者なのであるという気付きが最後にやってくる。 輪っていたのは何だろう? 物語のテーマを考えるにあたり、ここは重要なポイントなのではないかと考え始めた。 例えば関係性。 冠葉と晶馬と陽毬、陽毬とヒカリとヒバリ。 あげていけばキリがない。とにもかくにも、3人1セットの関係性が他の3人1セットと絡みながら、時には素敵な関係として広がり、時には重苦しい関係として重なりあうのだ。 しかし運命の乗換の後は関係性の重なりは全て消え、2人組の孤立したペアになってしまう。 苹果と陽毬、真砂子とマリオ、田蕗とゆり、晶馬と冠葉を彷彿とさせる少年2人、ダブルHのヒカリとヒバリ、あるいは物別れになったが眞悧と桃果。 運命の乗換の瞬間、鉄道の連結が切れるのが全てを象徴するかの様に、重なり合っていた関係性は絶たれてしまう。そしてそれを象徴するかのように、タイトルの出るエンドカットで「24」という数字の周りを巡っていた輪は消えている。 陽毬が「生きているのは罰をうけるということ」と言ったけれど、でも罰という言葉の禍々しさに対して、例にあげられたのは日常的なちょっといらっとする程度のささいなことばかりだった。自分周辺に広がる縁が運んでくる、日々のちょっとだけ面倒だなあと思うこと、しがらみを「罰」と呼び変えたのではなかろうか? そしてそういった縁は、打算ではなく小さな無償の愛の絡み合いによってつながれている。 物語では最後、運命の乗り換えをしたらその面倒な縁は切れてしまった。フィクションにありがちなご都合主義はなりを潜め、最後の最後まで犯罪者の子供は犯罪者という重くのしかかり続けたしがらみでさえも、最後は絶たれた。 しがらみはなくなり自由快適な関係になった。 実際作中では、縁を切られた子供たちはこどもブロイラーに送られ透明な存在へと向かっていくシーンが繰り返される。陽毬が同様の方向に進もうとした時は酷く切なかったではないか。そして晶馬が新しい縁を陽毬と繋いでくれたときは酷く嬉しかったではないか。その後陽毬に、犯罪者の子供というまた別の縁が降り掛かっていたのだとしても。 面倒な事が全てなくなった世界と、しがらみだらけだけれども縁がある世界。 どちらが充実して幸せなんだろう? まるで現代日本が抱える無縁社会と有縁社会の問題を象徴しているかのような。 こどもブロイラーは無縁の暗喩だったのかもしれないとも気付く。 現実の世界では、輪るピングドラムの世界のように都合よくしがらみは切れない。生まれつきの縁と、時を経ながら作った縁と共に生きていくしかない。だからこそ、目を背けてはならず、一生向き合うってことが生きるってことなんだと。 そして宮沢賢治。彼は「ほんとうのしあわせ」を一生かけて考えた続けた人であり、まさに社会と人の関係、社会システムが生む歪と人の不幸を悩み続けた人だった。彼の人生もまた、輪るピングドラムのテーマの根底に据えられていたものではなかったろうか。 物語では最後、縁が紡ぐ輪が綺麗に切れて2人組だらけになってしまったけれど、くまのぬいぐるみを通じて陽毬ちゃんとの重なりがかすかに残る。 そしてそのぬいぐるみが運んだ縁は、最後ベルトコンベアから落下の方向に進んでいた1号2号の箱に、3号が入ったことによって逆流して取り戻したものだった。あれはとても希望の象徴のように見えるシーンで、それはやっぱり、縁は……絆はあったほうがいいよ、と言われているように感じられたのだった。 輪るピングドラムは絆と向きあいながら前に進む物語である、 そう、まとめたいと思う。 ********** 以上抜粋。 すっごく銀河鉄道の夜が読みたくなった。 双子の神話の話は、え?違うんだと思うよ、だって神の子じゃないじゃん。 と思ったけど、他の部分には激しく納得。 解釈、面白かった。 4匹揃って二人の少年の後ろをついて行ったペンギンは、意味深。 そんで、マリオの病気治ったの?とか、 また今度はそっちを、眞悧に利用されそうな気もするよ。 その時、冠葉と晶馬はどうするのかな、記憶有るのかな? 戻らないないのかな? 疑問は果てしない…(^_^;) やっぱ小説読む…でも今はお金ないから買えない…残念… PR |
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