あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに
よしののさとに ふれるしらゆき 坂上是則 (さかのうえのこれのり) (古今集) [通釈]夜明けがた、有明の月が光っているのかと思うくらいに 吉野の里に、一面にふっている白雪よ。 *********************************** 歌番号 31 四季(冬) 有明の月のように明るく降り積もる吉野の雪の清さを詠ったうた 歌意: ほのぼのと夜が明けるころ、明け方の月が照らしているのかと見間違えるほどに、吉野の里に白く降り積もっている雪であることよ。 When the dawn broke after a lovely night, the snow of Yoshino is so brilliant one that one could mistake it for the moon at dawn.『皇太后宮大夫俊成』で調べたら、藤原俊成がHITしました。 PR |
おくやまに もみぢふみわけ なくしかの
こゑきくときぞ あきはかなしき 猿丸大夫(さるまるだゆう) [通釈](古今集) 人里離れた山の奥深くで、散って敷きつめられたような紅葉を踏みながら鳴いている鹿の声を聞いたときこそ、秋がひときわもの寂しく感じられるものだなぁ。 ********************************************************************** 猿丸大夫で調べた。以下抜粋。 (生没年不詳(奈良時代後期頃の人物と考えられている) 実在の証拠が無く、架空の人物である可能性が高い。三十六歌仙のひとりである。 この人物の名前は、『古今集真名序』に見つけることができる。「大夫」としてあるので、元は高貴な身の上でありながら遁世した(いわゆる出家者)とみることができよう。これを「太夫」の間違いとして神職であるとする説もあり、そうなると百人一首の坊主の絵が間違いということになる。 また、近江猿楽の祖となる「芸人」とする説もある。その他、「猿丸大夫は『怪僧』弓削道鏡のことだ」とする俗説もある。 ガサガサと紅葉を踏み分けて、 ************** |
ひとはいさ こころもしらず ふるさとは
はなぞむかしの かににほひける 紀貫之(きのつらゆき) [通釈]あなたの心はさぁ、もとどおりであるかどうかわかりませんけど、(古今集) さすがこの地の花は昔のままの香で美しく咲きにおっていることです。 ********************************************************************** 紀貫之で調べた。以下抜粋。 (866?-945?)平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。御書所預・土佐守・木工権頭。官位・官職に関しては不遇であったが、歌は当代の第一人者で、歌風は理知的。古今和歌集の撰者の一人。その「仮名序」は彼の歌論として著名。著「土左日記」「新撰和歌集」「大堰川(おおいがわ)行幸和歌序」、家集「貫之集」。 紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期の歌人。『古今和歌集』の選者のひとり。また三十六歌仙のひとりでもある。紀友則は従兄弟にあたる。 紀望行の子。幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。[1]貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。 延喜5年(905年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に編纂し、仮名による序文である仮名序を執筆した。(真名序を執筆したのは紀淑望)「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。 日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人としては『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌が入集しているのは[2]他の歌人に比べて最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。 |
わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの
くもゐにまがふ おきつしらなみ 法性寺入道 前関白太政大臣 (ほっしょうじにゅうどう) [通釈]大海原に舟を漕ぎ出してみると、海と空とが一つになって雲と(詞花集) 見分けのつかない沖合の白波のおもしろさよ。 ********************************************************************** 法性寺入道で調べたら、藤原忠通でHIT。以下抜粋。 藤原忠通(ふじわら の ただみち、承徳元年閏1月29日〈1097年3月15日〉 - 長寛2年2月19日〈1164年3月13日〉)は、日本の平安時代後期から末期の公卿。摂政関白太政大臣・藤原忠実の長男。 小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。 |
よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのをぶねの つなでかなしも
鎌倉右大臣 (かまくら‐うだいじん) [通釈]あこの世の中は永久不変であってほしいものだなぁ。この渚を漕いでゆく漁夫の小舟の、引き綱を引いてゆく光景は、なんとまぁ、感深いことであることよ。(新勅撰集) *********************************** 他の方のHPには、↓このようにあった。 世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)漕ぐ 海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも 世の中の様子が、こんな風にいつまでも変わらずあってほしい ものだ。波打ち際を漕いでゆく漁師の小舟が、舳先(へさき)に くくった綱で陸から引かれている、ごく普通の情景が切なくいと しい。 ************************* 『鎌倉右大臣』で調べたら、源実朝(みなもと‐の‐さねとも)とでました。 以下抜粋: 小倉百人一首93 [1192~1219]鎌倉幕府第3代将軍。頼朝の次男。母は北条政子。幼名、千幡。頼家のあとを継いで将軍となったが、実権は北条氏が握った。のち右大臣となり、鶴岡八幡宮で頼家の子公暁(くぎょう)に殺された。藤原定家に師事、万葉調の歌をよくし、家集「金槐和歌集」がある。 ****************** ちなみに…↓ 建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲った。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に仲章を切り殺したが、これは太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された[4]。 予見が有ったのか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べたが、仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪を行う者に記念と称して髪を一本与えている。庭の梅を見て詠んだ辞世となる和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」で、禁忌の歌と評された。落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わるが、これは後世の創作と考えられ、信憑性に乏しい。『承久記』によると、一の太刀は笏に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。 28日、妻は落餝し御家人百余名[5]が出家する。亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺した。この時、渡宋を命じられていた葛山景倫は訃報を聞いて、高野山に菩提を弔う為に上がり、その忠心を政子に認められ、和歌山の由良に西方寺(後の興国寺。尺八伝来の地)を与えられた。実朝には子が無かったため、彼の死によって源氏将軍および河内源氏棟梁の血筋は断絶した。 |