はなさそふ あらしのにはの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり
入道前太政大臣 (にゅうどうさきのだじょうだいじん) [通釈]あらしが花を誘って散らす庭の花の落花の雪でなくて、じつはだんだんと歳をとって古くなっていく私自身であるなぁ。(新勅撰集) *********************************** 『入道前太政大臣』で調べたら、西園寺 公経(さいおんじ きんつね、正字体:西園寺公經)とでました。 以下抜粋: 小倉百人一首27 平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖とされている。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。 ****************** 承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されるが、事前に乱の情報を幕府に知らせ幕府の勝利に貢献した、、って結構波乱万丈の人だ。 加齢を気にした歌なんだ?なんか物悲しいような…。 他の方のHPには、↓このようにあった。 読み はなさそふ あらしのにはの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり 季節 春 現代意訳 (降っているのは) 嵐が庭に散らしている花吹雪ではなくて、降っているのは、実は歳をとっていくわが身なのだなぁ。 出典 「新勅撰集」 ****** 始めの方はカレンダーの意訳、HPの意訳とは違うんだね。 PR |
みかのはら わきてながるる いづみがは いつみきとてか こひしかるらむ
中納言兼輔 (ちゅうなごんかねすけ) [通釈]みかの原をわきて流れる泉川、その「いつ」という言葉ではないが、一体いつ見たので、なぜこんなにあの人が恋しいのでしょうか。(新古今集) *********************************** 『中納言兼輔』で調べたら、藤原兼輔とでました。 以下抜粋: 小倉百人一首27 藤原 兼輔(ふじわら の かねすけ、元慶元年(877年) - 承平3年2月18日(933年3月21日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、右中将・藤原利基の六男。官位は従三位・中納言。また賀茂川堤に邸宅があったことから堤中納言とよばれた。三十六歌仙の一人。 醍醐天皇の外戚であったことから、その春宮時代より仕え、寛平9年(897年)に醍醐天皇が即位すると昇殿を許される。醍醐天皇に非蔵人として仕える傍ら、讃岐権掾・右衛門少尉を経て、延喜2年(902年)従五位下に叙せられる。 延喜3年(903年)内蔵助に抜擢されたのち内蔵寮の次官次いで長官を務める傍ら、左兵衛佐・右衛門佐・左近衛少将といった武官や五位蔵人を兼任して引き続き天皇の側近として仕えた。延喜17年(917年)蔵人頭、延喜19年(819年)左近衛権中将を経て、延喜21年(921年)に参議として公卿に列した。延長5年(927年)従三位・権中納言に至る。 承平3年(933年)2月18日薨去。享年57。最終官位は権中納言従三位行右衛門督。 |
村雨の 露も未だ干ぬ 槇の葉に 霧立ち昇る 秋の夕暮れ
寂蓮法師 (じゃくれんほうし) [通釈]あわただしく降りすぎた村雨の露もまだかわききらない槇の葉に霧が立ち上っている。秋の夕暮となったことよ。( ) *********************************** 『寂蓮法師』で調べた。 以下抜粋: 小倉百人一首87 寂蓮(じゃくれん、1139年(保延5年)? - 1202年8月9日(建仁2年7月20日))は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌人、僧侶である。俗名は藤原定長。 僧俊海の子として生まれ、1150年(久安6年)頃叔父である藤原俊成の養子となり、長じて従五位上・中務少輔に至る。30歳代で出家、歌道に精進した。御子左家の中心歌人として活躍し、「六百番歌合」での顕昭との「独鈷鎌首論争」は有名である。1201年(建仁元年)和歌所寄人となり、『新古今和歌集』の撰者となるが、完成を待たず翌1202年(建仁2年)没した。 『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に、117首入集。家集に『寂蓮法師集』がある。 ****************** 色んな藤原さんが居てよく判らない…。 そういえば寂蓮で入力打っても、藤原定長で入力打っても同じ人で 出るなんて、きちんと名前が管理されているんだね(^_^;) |
心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花
凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) [通釈]もし折ろうとするなら、大雑把な見当ででも折ってみようかしら。初霜が白さを争うように置いて、どこが花だかわからなくしている、見事な白菊の花。( ) *********************************** 『凡河内躬恒』で調べた。 以下抜粋: 小倉百人一首29 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。歌合わせ・歌会・屏風歌(びょうぶうた)に作品が多い。古今集撰者の一人。家集に「躬恒集」がある。生没年未詳。 寛平6年(894年)2月に甲斐権少目、延喜7年(907年)1月に丹波権大目、同11年(911年)1月に和泉権掾、同21年(921年)1月に淡路権掾に任ぜられるなど、地方官を歴任。延長 3年(925年)、和泉から帰京して後まもなく没したという。 歌人としては三十六歌仙の1人に数えられ、延喜5年(905年)に紀貫之・紀友則・壬生忠岑と共に『古今和歌集』の撰者に任じられる。歌合や賀歌・屏風歌において活躍し、宇多法皇の大堰川行幸(907年)、石山寺御幸(916年)、春日社参詣(921年)などに供奉して和歌を詠進した。官位は低かったものの、古今和歌集への58首をはじめとして勅撰和歌集に194首入集するなど、宮廷歌人としての名声は高い。家集『躬恒集』がある。 なお、広峯神社祠官家である廣峯氏は躬恒の末裔を称した。 ****************** 霜と見紛うほどの白菊の花…なんて綺麗な歌ですよね。 WEBに載っていた逸話も愉しい。↓ 『大和物語』一三二段に、醍醐天皇に「なぜ月を弓張というのか」と問われ、即興で「照る月をゆみ張としもいふことは山の端さして入(射)ればなりけり(=照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです)」と応じたという話がある。 『無名抄』によると貫之・躬恒の優劣を問われた源俊頼は「躬恒をばなあなづらせ給ひそ(=躬恒をばかにしてはいけません)」と言ったという。…/// 自分が写した手持ち資料には、『躬恒、‘古今集’の五人の撰者の一人』と有りました。 そういえば、この歌にも、久しぶりに私の書いた要説が残っていたので、それも入力します。↓ 要説)あくまでも白菊の美を詠むのが主眼であって、初霜は白菊をひきたてる脇役。 初雪の白さに負けない純白の菊、その美しさに手折るのも憚られる。 でももし折ってみようというのなら、まったくの「心あて」つまり当て推量で折ってみようかしら、というのである。 「折らばや」の「ばや」は、未然形に付く接続助詞「ば」に疑問の助詞「や」が付いたもの。 この「や」と「折らむ」の「む」とで、ためらうような気持ちが出る。 白菊の白さの印象を誇張して表現した和歌。このような誇張した表現方法は「古今集」の頃の歌風である。 (正岡子規はこの和歌について、つまらぬ嘘で少しの値打ちもない、と酷評したらしいが、そう捨てたモノでもないと思っている人も多いらしい…) ↑ こんなん、ノートに書いてありました。そっかそういえば、そうだっけ?(^_^;) まぁこういうのを見てお勉強をする人はいないとは思うけど、 私のは確実だっていう自信ないから、きちんと調べてからお使いください~。 三十六歌仙の一人って有るけど36歌仙ってなんだっけ? 歌の上手い人36人ってことかしら。 そういえばそんなことより、オオシコウチで入力打っても ミツネで入力打っても、きちんと変換される程有名な方ってのが吃驚。!(^^)! |
山里は 冬ぞさびしさ まさりける
人目も草も かれぬと思へば 源宗干 (みなもとのむねゆき)右京太夫 (古今和歌集) [通釈]山里は、なんといっても冬が秋などではなく冬が、寂しさが一段と身に染みて感じられも絶え草も枯れてしまうと思うと、もう、そう思うだけで。 *********************************** 『源宗干』で調べた。 以下抜粋: (?-939) 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。是忠親王の子。正四位下右京大夫。「大和物語」に不遇を嘆く歌を残す。「古今和歌集」以下の勅撰集に一五首入集。家集「宗于集」 894年(寛平6年)源姓を賜与され、臣籍降下する。丹波権守、摂津権守、三河権守、相模権守、信濃権守、伊勢権守などの国司を務めるなど地方官を歴任し、また兵部大輔、右馬頭を務めた。天慶2年(939年)正四位下・右京大夫に昇進したが、翌年に没した。 「寛平后宮歌合」などの歌合に参加、紀貫之などと交流があった。『古今和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に15首入集。家集に『宗于集』がある。『大和物語』に右京大夫として登場する。 小倉百人一首 28番 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も 枯れぬと思へば(『古今和歌集』冬315) ****************** 自分が写した手持ち資料には、『光孝天皇の孫、皇族から臣籍に移った』と有りました。 そういえば、この歌には、久しぶりに私の書いた要説が残っていたので、それも入力します。↓ 要説)下の句の「思へば」は不要とする見方がある。 確かに一見、説明的すぎる傾向が感じられるが、冬に入ろうとする今 「ああ、いよいよ人も訪れなくなり草も枯れつくした山里」の情景が まぶたに浮かび、まだそうなったわけでもないのにそのことを思いやるだけでも 寂しさが身に沁みる、ということを考えれば「思へば」があることで初冬の和歌であることが活きる。 またそこに繊細な歌人の情感を読み取りたい。 「かる」は人目に対しては「離る」、草に対しては「枯る」の掛け言葉。 「さびし」「わびし」は、秋のイメージというのが相場だったことを背景に味わいたい。 ↑ こんなん、ノートに書いてありました。そっかそういえば、そうだっけ?(^_^;) まぁこういうのを見てお勉強をする人はいないとは思うけど、 私のは確実だっていう自信ないから、調べてからお使いください~。 |