あまのはら ふりさけみれば かすがなる
みかさのやまに いでしつきかも 安倍仲麿 (あべのなかまろ) (古今集) [通釈]大空をはるかに見渡すと月が出ている。あの月は昔、故郷の三笠の山に出た月と同じものか、ああ、恋しいことだなぁ。 *********************************** 『安倍仲麿』で調べたら、阿倍 仲麻呂ででた。 以下抜粋: (あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年)1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。中務大輔・阿倍船守の子。弟に阿倍帯麻呂がいる。 唐で科挙に合格し唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせなかった。中国名は仲満のち晁衡(ちょうこう、または朝衡)。 文武天皇2年(698年)、阿倍船守の長男として大和国に生まれ若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)、多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行し唐の都・長安に留学。同期の留学生には吉備真備や玄昉がいた。 唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕える。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官位を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。 天平5年(733年)多治比広成(県守の弟)が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破。この時帰国した真備と玄昉は第1船に乗っており助かった。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で日本に帰国することができた。天平5年(734年)には儀王友に昇進した。 天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進する。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。 しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。実際には仲麻呂は死んでおらず船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めなかった。 仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられた。最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じた。 ****************** 留学先で試験に受かってしまい、日本に戻れなかった人なんだね。 そっかそういえば、習いましたワ(^_^;) PR |
よのなかよ みちこそなけれ おもひいる
やまのおくにも しかぞなくなる 皇太后宮大夫俊成 (こうたいごうぐうのだいぶとしなり) (千戴集) [通釈]この世の中よ、どこにも憂きことをのがれる道はないことだ。山の奥に逃れようと思って入ってきたが、此の山の奥にも憂きことがあるのか、鹿が鳴いているよ。 *********************************** 『皇太后宮大夫俊成』で調べたら、藤原俊成がHITしました。 以下抜粋: 藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ葉室家に養子に入り藤原(葉室) 顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の編者として知られる。 落ち延びた人ってわけでもないのにこのうたって…、結構仕事大変でどっかに逃げたい人だったのかな? |
よのなかよ みちこそなけれ おもひいる
やまのおくにも しかぞなくなる 皇太后宮大夫俊成 (こうたいごうぐうのだいぶとしなり) (千戴集) [通釈]この世の中よ、どこにも憂きことをのがれる道はないことだ。山の奥に逃れようと思って入ってきたが、此の山の奥にも憂きことがあるのか、鹿が鳴いているよ。 *********************************** 『皇太后宮大夫俊成』で調べたら、藤原俊成がHITしました。 以下抜粋: 藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ葉室家に養子に入り藤原(葉室) 顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の編者として知られる。 落ち延びた人ってわけでもないのにこのうたって…、結構仕事大変でどっかに逃げたい人だったのかな? |
わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと
ひとにはつげよ あまのつりぶね 參議 篁 (さんぎ たかむら) (古今集) [通釈]大海原を多くの島々へ心を寄せて漕ぎ出して 行ったと、都に居る懐かしい人に告げておくれ、漁夫の釣舟よ。 ********************************************************************** 參議 篁で調べたら、小野 篁でHIT。以下抜粋。 小野 篁(おの の たかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は、平安時代前期の官人、学者、歌人。参議小野岑守の子。官位は従三位・参議。異名は「野相公」「野宰相」、その反骨精神から「野狂」とも。 経歴 小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。 孫に三蹟の一人小野道風がいる。 若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し学業に励んだとされる。弘仁13年(822年)文章生に補せられ、大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下に叙せられた。翌天長10年に仁明天皇が即位し、淳和上皇の皇子恒貞親王が皇太子になると、東宮学士に任ぜられた。 承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使藤原常嗣の専断に憤慨しいさかいを起こし、病気と称して乗船を拒否(遣唐使は篁を残して同年6月渡海)する。さらに、「西道謡」という朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪の上隠岐への配流に処された。のち承和7年(840年)2月許されて帰京・本位に復す。 その後も蔵人頭・左中弁と要職を歴任。承和14年(847年)には参議として公卿に列した。仁寿2年12月(853年1月)従三位に叙せられるがまもなく薨じた。 流されたけど、頑張って返り咲いた人なんだね。 |
あきのたの かりほのいほの とまをあらみ
わがころもでは つゆにぬれつつ 天智天皇 (てんちてんのう) (後撰集) [通釈]秋の田の取入れのための仮小屋の屋根の苫の編み目が粗いので、私の袖は夜露に濡れに濡れている。 |